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さざなみの記憶と滋賀の祈り・前編
Prayer of Shiga
さざなみの記憶と滋賀の祈り・前編
夕暮れには、穏やかな湖面がゆっくりと夕日に染まり、
その美しさを讃えるかのように、
鳥たちが羽ばたきながら彼方へと消えてゆく。
ここ滋賀の地は、一面に広がる湖と周囲を取り囲む美しい山々によって、古の時代から数々の物語が紡がれて来た。
そんなこの地に息づく様々な物語に耳を澄ましてゆくと、
ある途方もない祈りの言葉に辿り着いた。
それは、無数の人々の想いと悠久の自然によって、時を越え紡がれて来た、決して古びることのない祈り。
そして、その祈りの中は、私たちが失いつつある大切な記憶が流れていた。
そんな祈りの言葉を紐解きながら、この地に宿る物語を紡いでゆきたい。
Contents
幼少期からアカデミーまで
絵を描くことに没頭した少年時代
1890年6月12日、ドナウ川沿いにあるオーストリアの町トゥルンでエゴン・シーレは生まれた。 1890年は、世界的に有名な作品「ひまわり」を描いたオランダ出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの死没した年だ。
後年、ゴッホの作品と出会い、深く感銘を受けたシーレは、自身の生まれた年と重ね合わせ「自分はゴッホの生まれ変わりではないか」と考えるほどに彼に強い影響を与えることになる。
シーレは、三人兄妹の次男として、度重なる死産と流産を乗り越えて生まれたシーレ家の唯一の男の子として、大切に育てられたという。
母親マリー・シーレが幼少期のエゴン・シーレのことを振り返り「初めて絵を描いたのは、彼が1歳半になったばかりの頃だったわ」と語っている通り、早熟の天才は幼くして既に芸術家への道のりを歩み始めたのだった。
そうしたシーレの才能を家族も認め、彼の才能が将来より良い形で結実することを誰もが期待し、望んでいた。しかし、それはあくまで芸術家としての成功ではなく、より良い職業人としての成功であり、トゥルンの駅長として働いていた父親アドルフが思い描く「手先な器用な息子が技術者として出世して欲しい」という期待を込めた想いとシーレの絵に対する想いは年を重ねるごとに乖離していったことは想像に難しくない。
実際に、こんなエピソードがある。芸術に対する情熱が日増しに大きくなっていったシーレがラテン語の勉強を怠って絵を描きたいと父親にせがんだところ、怒った父親がスケッチブックを取り上げて、ストーブに放り込んで燃やしてしまったというのだ。
その後、家族の意向で様々な学校へシーレを通わせるも、一向に成績は伸びず、かえって勉強への嫌悪感を募らせ、さらには規則だらけの学校制度への疎外感も感じるようになっていった。
そのことがより一層、シーレの芸術への想いを大きくしたとも言えるだろう。
しかし、そうした現実は、思いがけない不幸がきっかけとなり、大きく転換してゆくことになる。
父の死とウィーン美術アカデミーへの入学
1904年、シーレが14歳の時、父親が病死したのだ。死因は、元々感染していた梅毒の悪化が原因だったという。
価値観の違いからぶつかり合うことも多かった父と子だが、父を慕っていたシーレにとってその事実は、大きな喪失感を伴うものだった。
そうした喪失感を埋めるように、以前にもまして絵に没頭していくようになる。しかし、それは同時に、これまで押し付けられていた勉強から解放され、自由に芸術に向き合うことが出来る大きな機縁となり、彼の芸術家への道が大きく開かれれてゆくことになる。
ウィーン美術アカデミーでの日々と運命の出会い
そうしてシーレが手繰り寄せた運命の先にあったのは、またしても退屈だった。芸術への高鳴る想いを胸に、意気揚々と門をくぐったウィーン美術アカデミーで行われていたのは、シーレの想い描いていた創造的世界ではなく、100年ものあいだ改訂されることなく続けられて来た型にはまったカリキュラムであった。
そうした学校の在り方に馴染めずに、徐々に学校をさぼるようになる。
しかし、それでもクラスメートと足並みを揃えて学ぶことは難しくなかったというから驚きだ。当時の教授は、生徒たちに1日1枚のドローイングを描くように指導していたそうだが、シーレが日頃から描いている量に比べると、比べものにもならない量だったのだ。
このエピソードは、彼の絵は、決して天賦の才だけではない、ひたむきで圧倒的な努力が潜んでいることを私たちに教えてくれる。
そして、1908年、シーレが18歳の時、彼の運命を大きく変える出会いを果たすことになる。
芸術家への道を歩み始める
クリムトとの出会いと決意
それは、ウィーンの巨匠 グスタフ・クリムトとの出会いだった。
その年にウィーンで開催された総合芸術展「クンストシャウ」でクリムトの作品に出会い、衝撃を受けたシーレは、その後の1年間、多くの時間を割き、クリムトの作品の研究に費やしたという。
その翌年の1909年に開催される第2回国際「クンストシャウ」では、なんとクリムト直々に出展を依頼されたというのだから、その間のシーレの画家としての成長ぶりには驚くばかりである。
もちろんクリムトの影響だけでなく、ゴッホの絵画からの影響、人智学・アントロポゾフィー(科学的・神秘体験を通じて精神世界を研究するという学問であり、アントロポロゾフィーとは「人間の叡智」という意味である)の祖であるルドルフ・シュタイナーの著書を読み、感銘を受け抽象的な表現を目指すようになったこと、またこれは真偽は明らかではないが、シーレの友人の画家であるエルヴィン・オーゼンが友人と一緒に演じていた、一風変わった機械的な動きを伴うパントマイムがシーレ独自の躍動感のある身体表現にインスピレーションを与えたことなど、様々な経験が紡ぎ合わせれ、彼独自の表現が生まれていったことは見逃すことが出来ない。
しかし、展覧会への出展は同時に、シーレの在籍するアカデミーの「生徒は公の場で作品を発表してはならない」という校則に違反することになり、必然的に彼の今後の進路を大きく問われることになる。既存のアカデミックな枠の中で表現を続けていくのか、退路を断ち、新しい表現を生み出す芸術家として歩んでいくのか、そのどちらを選ぶのかということを。ちょうどその時、志を同じくするクラスの仲間とともに「新芸術集団」を結成する。その結成の志として、シーレはこう語っている。
「芸術は、つねに同じものだ。新しい芸術などというものは存在しない。新しい芸術家がいるだけだ。しかし、その数は非常に少ない。新しい芸術家は、必然的に自分自身であるべきだ。彼は創造者でなければばらず、いかなるものも介在させず、過去から引き継がれたものを用いず、まったく独力で基礎を築き上げなければならない。そういう人間だけが、新しい芸術家なのだ。ぼくらの誰もが、自分自身であることを望む」(著者 ジャン=ルイ・ガイユマン 監修 千足伸行 翻訳 遠藤ゆかり 『エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス』 創元社より )
そうした芸術へのほとばしる想いを胸に、シーレは退学を決意したのだった。
華々しい幕開け、そして田舎暮らし
退学後、ついに19歳のシーレは本格的に芸術家として歩み始めることになる。
1909年末には、画商ピスコによって開催された展覧会で「新芸術集団」のリーダーとして、シーレの作品は大々的に展示され、それをきっかけにシーレのパトロンとなる幾人かの支持者と出会うことになった。
経済的安定には、まだまだほど遠かったものの、結果的には退学という決断が芸術家としてのじつに良いスタートになったのだった。
しかし、そこからの道のりは決して順風満帆という訳にはいかなかった。
亡くなった父の後見人である叔父ツィハツェックが甥であるシーレには仕事がないと早合点し、軍隊に入れようと猛烈に働きかけたことや「新芸術家集団」の旗手としての野心が結果的に、オーストリアの前衛芸術家たちとの諍いの火種となってしまい対立を招いたこと、その他に自身の私生活の問題など、様々なことが重なり合い、シーレはウィーンという街に対し、強い不満を抱くようになり、友人への手紙でこう綴っている。
「ここはなんて醜い場所なんだ、誰もが妬みと欺きに満ちている。ウィーンは闇で覆われてしまった。この町は真っ暗だ。」
(著者 ジェーン・カリアー 翻訳/編集 和田京子 『エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集』 新潮社より )
そうした募る不満から逃れるように、シーレは創作の拠点をウィーンから田舎町のクルマウに移すことになる。
母の生まれ故郷であったクルマウには、以前から愛着を抱いており、栄枯盛衰の歴史を感じさせる古い街並みと今まさに衰えゆくその姿に美しい哀愁を感じ、愛情を込めて「死の町」と呼んでいたという。
だが、穏やかな日々はそう長くは続かない。
小さな町ではあまりに目立つ奇抜な格好に身を包み、不遜な物言いをしていたシーレに対し、町の人々が不信感を募らせるようになり、最終的には自身の庭先でヌードモデルを描いていたことが発覚。
保守的な町においてその事実は、大問題にまで発展することになり、最終的にはクルマウを去ることに。
そして、一旦はウィーンに戻ったものの、それでも都会にはない穏やかな時間を求めて、別の小さな村であるノイレングバッハに引っ越すことを決める。
まさか、その村で自身の価値観を揺るがすような大きな事件に巻き込まれることをシーレ自身も知るはずもなく。(ウィーンの鬼才画家 エゴン・シーレの物語・2に続く)
- text / photo HAS
Reference :
-
「ナルシス」
- 著者:
- ジャン=ルイ・ガイユマン
- 監修:
- 千足伸行
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text / photo :HAS